2021/11/02 11:03

ブラジル ペルナンブーコ州の州都 レシフェ のカーニバル ~マラカトゥ・フラウ~

2007年 ずっと訪れたかった憧れのヘシフェのカーニバルへ。
2週間ほどの滞在の中でたくさんのステージが立ち並ぶ中、様々なアーティストの演奏や伝統芸能にふれた素晴らしい体験でした。
そのうちの一つ


カーニバルのメインステージなどがあるヘシフェ旧市街地からバスを乗り継いで少し離れたTabajara タバジャラ という土地へ。
ここではマラカトゥ・フラウと言う伝統芸能が行われていました。

色鮮やかな衣装をまとい、それぞれのキャラクターを演じます。打楽器の演奏と即興の歌とで各チームが出来栄えを競い合います。


以下 Mega★Brasil サイト記事より引用

このマラカトゥ発祥の背景にはブラジルの砂糖産業の歴史があります。
ポルトガル王室が1549年に国王直属の総督が直接ブラジルの植民地経営を担う総督制を導入し、初代総督トメ・ジ・ソーザが1000人の入植者を率いてバイーア州に到着しました。
この時、ブラジルの首都はバイーア州のサルバドールに定められ、総督制により、本格的な植民地経営を進めた結果1570-1670年代の一世紀の間、ブラジルにおける砂糖産業は目覚ましい発展を遂げました。
主な生産地は首都のあるバイーア州とその北に位置するペルナンブーコ州等の北東部でした。
サトウキビ栽培で富を築いた領主たちは労働者を農園内に住みこませていたのですが、この労働者たちがマラカトゥ・フラウという文化を形成して来たと言われています。

砂糖産業の労働力は、当初インディオに大きく依存していたのですが、インディオの酷使、疫病の流行の結果、インディオの数は激減。
1570年インディオへのキリスト教布教という使命をもったイエズス会の宣教師達の働きかけによって、インディオ奴隷化禁止令が発布されると、インディオの代わりの労働力として、アフリカから黒人奴隷が輸入されるようになりました。

黒人奴隷はサトウキビ栽培の重要な労働力を担いました。
マラカトゥ・フラウが、キャラクターや楽器の特徴としてアフリカ文化を色濃く受け継いでいるのは、そのような背景があったのです。


◎◎ 写真は2007年に訪れた際に撮影したものです。◎◎